2016年2月29日月曜日

絵画の話・2

こんばんは。卒研は波瀾万丈でしたがなんとか終わりました。
その節は叱咤激励のお言葉を皆様ありがとうございました。

私の研究ですが、芸術絵画に関連するものなので実に多種多様な絵画をリストアップしました。そのまとめ作業は未だ続いているのですが、研究が終わって一つ一つの絵画を眺めると、チョイスしたときとはまた違う感想がこみ上げてきて面白いものです。

というわけで、今回のブログネタは研究に用いた絵画について一つご紹介します。
著作権は切れているので画像掲載しておきます。

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  題名:Courtesan
 作者: 歌川豊国(2代目)
(参照 wikiart:http://www.wikiart.org/en/utagawa-toyokuni-ii/courtesan#close)

Courtesanとは「高級娼婦」という意味です。
画像参照したwikiartでこの単語をサーチすると他にもなかなか凄まじい絵が……発禁かけてほしい……。

絵画を観ていきますが、ここで注目してほしいのが絵画に書かれている言葉です。
「大黒屋内 蔦之助」とあります。歌舞伎には詳しくありませんが、"だいこくやのつたのすけ"という名跡(みょうせき)があったのだと思われます。
描かれている人物もおそらく歌舞伎役者当人であろうに、題名が「高級娼婦」、

…………どういうこっちゃ。

色々調べてみましたが、この作品が描かれている1820年には既に、幕府は歌舞伎役者における売春行為は禁じているようです。
公には、ですが。

ここで大活躍wiki先生の出番です。
(wikipedia:陰間の項目)

■役者の兼業陰間
歌舞伎は当初は女性が舞台に立つ「女歌舞伎」として発達した。しかしそうした女役者たちは売春を兼ねていたため、江戸町奉行所はこれを風紀を乱すものとして寛永6年(1629年)にいっさいの女性が舞台に立つことを禁止した。するとこんどは女歌舞伎と並行して人気を博していた、元服前の少年による「若衆歌舞伎」が盛んになった。しかし彼らもまた売色を兼ねており、しかも男客を中心に、女客の相手もした。そこで町奉行所は慶安5年(1652年)に若衆歌舞伎も禁止した。

(ね。 禁止されているんですよ。)

ところがこれで江戸の芝居街は火が消えたように閑散としたものになったため、江戸っ子は繰り返し町奉行所に若衆歌舞伎の再開を嘆願した。

(おっ…?)

そこで奉行所は、役者は前髪を落として月代を剃った「野郎頭」にすること、演目は世相を題材とした演劇を中心として音楽や踊りを控える「物真似狂言尽」とすることの2点を条件として、若衆が舞台に立つことを改めて許可した。以後の歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼ぶ。
しかしその後も役者による売色業は廃れることがなく、女性役をつとめる役者・女形はかえってより実際の女性に近い存在になっていった。そして女形にとって、男性に抱かれることは必須の役者修行のひとつと考えられるようになっていった。こうして修行中の女形は結局陰間を兼ねることになり、陰子(かげご)・色子(いろご)などと呼ばれた。舞台に立つようになっても舞台子(ぶたいご)と呼ばれ、芝居の幕が引かれた後の贔屓客の酒の席に招かれて、その色香が衰えるまで盛んに色を売った。

(マジカヨ)

うーん。やはりこの役者もそういうことをしていたのかもしれませんね。
さらに興味深いのが、右上に描かれたおじさんとその脇にある歌です。

奥山に もみぢ踏みわけ なく鹿の声きく時ぞ 秋は悲しき」 

有名な小倉百人一首ですね。
旺文社刊の古語辞典では「奥深い山の中で、散り敷いた紅葉を踏みわけて鳴いている鹿の声を聞くときが、秋はとりわけ悲しく感じられる」と現代訳されています。
しかし、ここで解釈が終わってはもったいないですね。
秋に雄鹿は鳴いて雌鹿を求めて鳴くことから、この歌は遠く離れた恋人や妻に対して想いを寄せる歌としても有名です。(なんで辞書にはここまで載っていないんだろう。この歌でggるとだいたいこの解釈を載せているものですが。)

で、絵画に戻ると「歌舞伎役者の描かれている空間とは違うところにいるおじさんが、恋人である(男性の)歌舞伎役者に想いを寄せる歌を詠んでいる」という、わりと凄まじいモチーフだったことに気づきます。
歌舞伎役者の表情が心無しか硬いのも、気になるところですね。


更に作者である歌川豊国(2代目)も調べてみました。
大活躍wiki先生。(wikipedia:歌川豊国(2代目)参照)

■来歴
初代歌川豊国の門人。名は源蔵、一陽斎、一暎斎、後素亭、満穂庵と号す。文政の初め頃、初代豊国に入門し当初国重(くにしげ)と称したが、のちに豊重(とよしげ)と改めた。

豊国の門人のなかでは若輩で技量も今ひとつであったが、文政7年(1824年)初代豊国の養子となり、初代の没後、翌文政8年(1825年)に二代目歌川豊国を襲名した。実力派の歌川国貞を差し措いてのこの処遇は、歌川派内において何らかの蟠りが生じていた可能性も考慮される。
しかし二代目豊国は忠実に師の画風を受け継いで、堅実な作風の美人画や役者絵、芝居絵を描いた。文政11年(1828年)頃には本郷春木町に住んでおり、後年になって二代目歌川豊国を称した国貞と区別するため「本郷豊国」と呼ばれた。
 
二代目豊国は初代の域を超えず、三代目豊国(国貞)に圧されて不遇な存在であった。二代目豊国の作品のうち、半身像の美人画「風流東姿十二支」は特に優れており、「美人合江戸十景」、「今様姿見」、「吉原八景」、「全盛百人首」などの美人画のシリーズも知られている。晩年の天保4年(1833年)から天保5年(1834年)の頃に、相模国と駿河国の景勝地を描いた風景画「名勝八景」8枚揃も良く知られている。なかでも「大山夜雨」は、丹沢山塊の大山にある大山不動尊を描いた佳作である。しかし天保5年(1834年)頃を境に作品は無くなっている。天保6年(1835年)死去、享年59(34とも)。
弘化元年(1844年)、兄弟子の国貞が豊国の名跡を継いでいるが、なぜか本来は三代目にあたるにもかかわらず、二代目豊国の存在を無視して自らを二代豊国と称し、豊重こと二代目豊国の存在を抹殺したのであった。

要するに、2代目豊国はそこまでの実力派ではなかったものの、初代の流れを堅実に汲んだほどの人ではあると。
しかし、 3代目豊国にあたる国貞なる人物に2代目豊国を名乗られたために存在を抹消されるという、描いているときも死後も不遇な扱いを受けたわけですね。


そんな不遇の人が道ならぬ恋(しかも一方通行かもしれない)の様子を描くあたり、なんともいえない気持ちを味わったこのごろです。

特にオチもなく終わり。


 

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